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「サバンの布」誕生と誓い

SHOKU「サバンの布」誕生
 



1998年1月私たちは、タイでしばしば見かけたラオスの織物に魅かれて、初めてラオスの国に足を踏み入れた。当時海外青年協力隊員としてサバナケートに滞在していた青年に案内を頼み、サムヌア、バンビエンなどを訪問し、ラオスの伝統織物の魅力を味わった。それまで織物には関心のなかったこの青年も、しばらく私たちと行動を共にするうちに織物に興味を持ち始め、彼に、サバナケート県での織物をぜひ見てほしいと勧誘され、同年3月にあらためてサバナケートを訪ね、主に同市周辺の村のいくつかを回った。青年が、「私たちに紹介したい人がいる」と言って引き合わせたのがブントン、ソン夫妻であった。ブントン氏は私をTHONGSAVANHXAY縫製工場へ案内して「現在はタイ企業の下請けとしてナイロンのブルゾンやパーカーなどを縫製しヨーロッパへ輸出しているが、なかなか利益があがらない。」と訴え、日本への直輸入を打診した。しかし商品の品質は日本の市場が受けいれる水準に遠く、ミシンの老朽化も顕著で、輸出は至難であるという私の率直な印象を言い、それよりも、大きな可能性を秘めているのが、村々で女性たちが織っている、綿の手織生地ではないか、と意見を述べた。
「あのような生地が輸出できるのか」とブントン氏は驚いたが、私は「村々で織っているものをそのまま輸出したのでは長続きしないであろう。伝統技術を生かして、なおかつ新しい感覚のものを取り入れる必要がある」と進言したところ、私に是非指導にきてくれないかと言うのだった。当時私は長年勤務した商社を退き、輸入繊維商品の企画コンサルタントの仕事をしていたが、なんとかプントン氏の力になりたいと考えた。

SHOKU「サバンの布」基本理念
 

1999年1月、この事業にとりかかるためにサバナケートへ。日本で30年間以上、植物染めと手織の作家として活動した経歴を持つ妻の助力がどうしても必要と思い、同行を求めた。事業を始めるにあたって、まずブントン、ソン夫妻に提案したのは下記のとおりです。
1.従来東南アジアの製品は品質はよくないが安い、というのが一般的なイメージだがこれを払拭するために、質の良い商品を作り、適正な価格で輸出しよう。

2.そのためには、徹底的に天然素材、手作りにこだわること。手作り綿糸を、すべて自然の素材を用いて手染めする。もちろん手織で。

3.ラオスの綿花や樹木は、いわゆるオーガニック認定をうけていないが、肥料は使用せず川のもたらす肥沃な土によって栽培されている。原料である綿花も、染材となる植物もすべてサバナケート周辺のものを使用する。あくまでも「自然の恵みを受けたラオスの織物」にこだわること。

4.手作りとは言うものの、厳しい品質管理をし、東南アジアの中でラオスの自然の恵みのみで作られた織物は高級だ、というイメージを、日本をはじめとする輸出先各国に分かっていただく。

5.より良い製品を作り上げ対日輸出を確立させるには、サバナケートの人々が豊かな暮らしがおくれるように適切な労働賃金を守り、町全体を活性化させる産業に発展させる。「フェアトレード」

上記の点でSHOKU「サバンの布」、基本的理念とすることに同意してもらいました。

作業の開始と展開
 

新しい織物を創造してゆくとはいえ、村人の生活の一部である棉や木藍の栽培泥藍作りや染色等、村人が普通に行っている方法をそのまま取り入れ、外部から材料や道具類まで一切持ち込まないことが大切だと考えた。まずはTHONGSAVANHXAY縫製工場の一角に水洗い用の小さなプールを作り、水道を引き、鍋、七輪、炭を買い入れて、工房がスタートした。ソン夫人の母親、ソンカンさんは、若いころ藍染めや手織の仕事をした経験があり、村から何人かのお年寄りを連れてきて、原綿を手で紡ぐ作業を開始する一方で、私たちは彼女たちの記憶を聞き取って
メモし、実際に植物、すなわち藍や、樹皮、実、などといった、染色材料を採取して試し染めの作業をはじめた。これらの作業ではソンカンさんの熱心な仕事ぶりと、その人格から多くの女性たちが彼女の指示のもとにそれぞれ作業に励んだ。工場の建物の隅に、便利大工のような男性が古い材木を集めて、これまたすべて手作業で手織の織機を1台づつ作っていった。糸が染まって何度も水洗い、乾燥を繰り返し、整経し、試し織をはじめる。2ヶ月間は瞬く間に過ぎ、染色した糸と試し織りした生地とを携えて3月初めに帰国。早速心当たりを回ってバイヤーを捜した。派遣前に偶然知り合ったJ社もその中の1社であった。同社からは事前に、インドネシアで入手したという生地片を渡されていて、それに近い見本を作るように依頼されており、われわれの作った生地を見て是非発注したいので、デザインを渡す、という反応を得た。J社に渡した染色糸は早速堅牢度テストに出され、染色堅牢度2級以下だった3、4色は今後の使用から外したが、その他ほとんどの色は3級以上であった。
同年3月、ラオスを再訪問。生成りの糸で手ぬぐいと婦人、紳士服用の生地試作を行う。撚糸や織りの工夫を重ね、見本を製作して帰国。その見本が気に入られ、後日、手ぬぐいと服地のデザインがだされた。さらに5月にも滞在、現地の女性たちはまず、メートル、センチメートルと言う単位が理解できず、さらにペーパーデザインをもとに織物を作ることにもまったく経験がないためそれらを指導するのに大変な苦労をすることとなった。オーダーに対しての生産の指導とさらに新しい試作にもとりかかった。12月、思いがけない記録的な低温がインドシナ各国を襲い、藍が全滅
したことの連絡を受けて急きょ現地に飛んだが、藍については回復させるてだてがなく、服地関係の出荷の大幅な遅れを報告することとなり、出荷をワンシーズンおくらすことに同意を得た。想像を越えた自然の力を思い知らされる事となった。こうしてJ社からの発注を柱に、事業は紆余曲折はあったものの、まずは順調に推移した。その間THONGSAVANHXAYから分離して独立した会社、トンラハシン(THONGLAHASINH)が誕生。また工場の一角にあった工房もブントン、ソン夫妻の自宅の敷地に移転させて主として染色を行い、織りは近くの村に拠点を移して、村の女性たち200人がこの事業にかかわる事となった。また糸の手紡ぎは、別の村、にて作成、ここでも200人の人たちが従事し、他にも棉を栽培して紡いだり、木藍を育てて泥藍を作る村が加わって、当初の目標であった地域産業として発展を遂げつつ今日まで推移してきた。
今後もこの事業は、開始当初に私ども、SHOKUと THONGLAHASINHとの間で合意した基本理念を堅持し、安易な妥協をすることなく、質の良いものを作って行くことをめざしていく。一時的に妥協することは、この事業に対する評価をさげ、決して長続きしないであろうことを関係者全員が肝に銘じている。

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